土佐錦魚の繁殖・飼育・分譲 土佐錦魚を究める

〒470-0122愛知県日進市蟹甲町家布1-3 info@izumi-ah.co.jp

土佐錦魚の分譲お問い合わせ

土佐錦魚について

土佐錦魚を究める

土佐錦魚

土佐錦魚とは

高知県を中心に飼育されていた品種になります。
現在では全国で愛好家がいる人気の品種で、昭和44年に高知県の天然記念物に指定されています。
文化・文政(1800年代初頭)の頃には、高知においても、武士の副業として、金魚の飼育が行われ、代々金魚を繁殖していた須賀家の資料として土佐錦魚元祖(弘化2年、1845年から嘉永4年、1851年)があり、どのような魚を飼っていたのか分かります。大阪らんちゅう(卵虫:ランチュウ)と相当数の地金の絵がありますが、流金型の魚はこの時代には一匹も書かれていませんでした。1845年に須賀克三郎によって大阪らんちゅうとリュウキンの交配で生まれたと言われています。

土佐錦魚の歴史

江戸時代 、弘化2年(1845年)頃に土佐藩藩士、須賀克三郎の長男、亀太郎氏により大阪らんちゅうとリュウキン交配によって生まれたと言われています。
亀太郎氏により大阪らんちゅうの体型と尾型・尾芯の平付け、リュウキンをタイプの容姿をベースとして、尾の大きさと顔の尖りを品種改良により作り出すことで独特の高知の金魚が創られました。
昭和初期に金魚博士で活躍した松井佳一博士は遺伝の実験中に土佐錦魚と交雑したリュウキンで尾ヒレの反転性の突然変異を確認したことがあり、大阪らんちゅうの尾ヒレの展開性と突然変異である反転性で生まれた金魚だと考えられると述べています。
また、須賀家は代々飼育していた和金タイプの魚(愛知県の地金)を飼育しており、その血筋が田村氏による証言として、亀太郎氏のオオオサカランチュウとリュウキンの交配以外にこの地金が入っている可能性もあるのではないかとも思われます。 今後、遺伝解析等で解明していただきたいものです。

高知独特の風土に培われた土佐錦魚は田村広衛氏の記憶によれば大正の初め頃から石立の八幡様、高知公園の榎の下といった場所で品評会が行われていたようです。品評会の記録はほとんど空襲で失われていますが、唯一高知の新開地で開催された会の結果が保存されていました(矢野城楼氏)。第2次大戦中には飼育者が激減、昭和20年7月、大空襲によって土佐錦魚は壊滅的打撃を受け、絶滅したと思われていました。現存する土佐錦魚は、その後、須賀亀太郎氏と親交があった田村広衛氏が南海大地震直後の昭和21年12月頃、鏡水楼主の自宅で生き残った土佐錦魚を焼酎と交換するエピソードがあり、氏の努力によって土佐錦魚が現代に引き継がれていったと言われています。また天然記念物申請のために、昭和40年土佐金魚会の名前で柳原病院院長である柳原範夫氏の申請から始まり、野中進氏、近森進氏等が活動し、昭和44年8月8日に天然記念物に認定されました。その後昭和47年に土佐錦魚保存会が発足されます。関東地方においては昭和46年、トサキン保存普及会(トサキン保存会)、昭和51年、東京土佐錦魚保存会が発足されました。その後現在(令和2年3月現在)までに全国には東京土佐錦魚保存会、関東土佐錦魚保存会、中部土佐錦普及会、中日本トサキン愛好会、トサキン保存会中部日本支部、錦魚振興会、岡山土佐金魚保存会、西日本土佐錦魚保存会、愛媛土佐錦魚保存会、宇和島土佐錦愛好会、日本土佐錦魚保存協会など多数の会が存在します。

TOPへ